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バイオグラフィー

アーレントの生涯

1906年

10月14日、ドイツ・ハノーファー近郊のリンデンで、エンジニアの父パウル・アーレントと母マルタ(ともに社会民主党員)の間に一人娘として生まれる。本人曰く「典型的な同化ドイツ・ユダヤ人の家庭環境で育った」。パウルは工学の学位を取得したが、ギリシア語やラテン語の古典研究にも熱心であった。マルタはパリに留学し、フランス語と音楽を学んだ。

1909年

父の病気治療のため、ロシア系ユダヤ人が多く居住するケーニヒスベルクへ一家で移住。父に代わり祖父のマックス・アーレントが幼少のハンナの相手をし、物語を多く聞かせる。母マルタの手記によると「彼女は数学と言語が得意で、音楽の理論的な事柄ならなんでも理解する」。

1913年

3月に祖父マックス・アーレント、10月に父パウルが死去。母マルタの手で育てられる。マルタは1920年に再婚。

1917-19年

1917年、ロシアで「二月革命」、「十月革命」勃発。1918年11月、ドイツ革命勃発、評議会(レーテ)が各地で結成される。1919年1月、ローザ・ルクセンブルクが殺害される。

1913-24年

ケーニヒスベルクとベルリンの学校で学ぶが、授業をボイコットして放校され、独学と家庭教師によりベルリン大学への入学許可証(アビトゥーア)を取得。

1924-28年

マールブルク大、フライブルク大、ハイデルベルクの各大学でハイデガー、ヤスパース、フッサール、ブルトマンらに哲学・神学・ギリシア語を学ぶ。17歳年上で妻子あるハイデガーと恋愛関係になるが1925年夏に区切りをつける。ハイデガーの講義を通じてハンス・ヨナスと知合い、生涯親交が続く。

1928年

11月、指導教官ヤスパースのもと、ハイデルベルグ大で『アウグスティヌスの愛の概念』(1929年出版)により博士号取得。

1929年

ギュンター・シュテルン(アンダース)と結婚。

1930-33年

ドイツの科学助成を受け「ラーエル・ファルンハーゲンの人生にみるドイツ・ユダヤ人の同化の問題」を研究。アウグスティヌスを軽視しないプロテスタント神学者パウル・ティリッヒの講義を聴講。

1933年

1月にヒトラーがドイツ政権を掌握、4月にハイデガーがフライブルク大学総長に就任。

1933-40年

1937年にドイツの市民権を剥奪され、母とともにパリに亡命。シオニズム運動に協力。1935年にユダヤ人青少年のパレスチナ移住支援組織(ユース・アリヤ)のフランス支部長を務める。パレスチナに3ヶ月滞在。レーモン・アロン、アレクサンドル・コジェーブ、サルトルらと知り合う。

1936年

ハイリッヒ・ブリュッヒャーと出会う。

1937-38年

1937年にギュンター・シュテルンと離婚。学術研究を再開、反ユダヤ主義の歴史について研究、講義を行う。『ラーエル・ファルンハーゲン』が1958年に出版、ドイツ語版は1959年。

1938-40年

パレスチナのためのユダヤ人組織、イェルサレム、フランス人シオニストの協力を得て「中央ヨーロッパからフランスへの移民」を支援する社会的事業に復帰。

1940年

1月、ハインリッヒ・ブリュッヒャーと再婚。

1941年

1月、列車でフランスを離れスペインを経由しポルトガルへ行き、不法難民としてリスボンに居住。

5月、ブリュッヒャー・亡命仲間とともにニューヨークに到着。到着後すぐにベンヤミンの草稿を「フランクフルト社会研究所」へ持って行くが所員のテオドール・アドルノらと出版をめぐり紛糾。母のマルタは一ヶ月後に到着し、1948年に亡くなるまで娘夫婦と暮らす。1951年にアメリカの市民権を獲得。

1941-52年

政治的著作家および講師として活動。 1948年5月にイスラエル建国。『アウフバウ』、アメリカ・ユダヤ人についての報告書、ジャーナルにて記事を発表。ヨーロッパの「ユダヤ文化再建委員会」の任務に就く。ニューヨークの諸学術機関で講義を行う。

1944-46年

ユダヤ人問題についてのカンファレンスで主任調査員を務める。

1946-48年

1948年5月、イスラエル建国。

ショッケン出版の編集長を務める。

1949-50年

11月から5月、「ユダヤ文化再建委員会」の代表としてヨーロッパ渡航。ヤスパースやハイデガー、旧来の友人たちとの再会が旅程に含まれる。

1949-52年

「ユダヤ文化再建委員会」の理事を務める。

1950年

6月、『思索日記』を書き始める。1973年までの全ノートが2002年に公刊。

1951年

『わが時代の重荷』、『全体主義の起源』出版、ドイツ語版『全体的支配の諸要素と起源』は1955年。

1952年

ハイリッヒ・ブリュッヒャーがバード大学で哲学の常勤教授となる。

1952-53年

グッゲンハイム財団の助成により「マルクス主義の全体主義的要素」についての研究プロジェクトに従事。

1953年

10月-11月、プリンストン大学のクリスチャン・ガウス・ゼミナールで「カール・マルクスと西欧(政治)思想の伝統」について六つの講義を行う。

1954年

5月、ノートルダム大学にて「哲学と政治―フランス革命後の行為と思考の問題」というテーマで三つの講義を行う。

1955年

春、カリフォルニア大学バークレー校にて客員教授。「政治理論の歴史」について講義およびゼミを行う。秋、講師兼ガイドとしてイタリア、ギリシア、イスラエル、スイス、ドイツを訪問。

1956年

4月、シカゴ大学にて「人間の身体の労働と人間の手による仕事」というテーマで六つの講義を行う。後に『人間の条件』として1958年に出版、ドイツ語版の『活動的生活』は1960年。

1956年

10月、ハンガリー動乱勃発。

秋、ロックフェラー財団による研究および講義のためヨーロッパへ渡航。

1958年

4月から6月、ブレーメンで『教育の危機』(1958年出版)、チューリッヒで『自由と政治』(1960年出版)、ミュンヘンで『文化と政治』(2007年出版)についてそれぞれ講義を行う。

9月、ドイツ出版業界の平和賞を授与されたヤスパースに賛辞を送る。

1959年

春、プリンストン大学にて客員教授。「アメリカ合衆国と革命精神」について講義。『革命について』として1963年に出版、ドイツ語版は1965年。

9月、ハンブルクのハンザ自由同盟からレッシング賞を授与される。

1960-61年

5月、アメリカで公民権法が成立。

コロンビア大、ノースウェスト大等さまざまな大学で客員教授を務める。

1961年

4月と6月、イェルサレムで行われたアドルフ・アイヒマン裁判を傍聴し、ニューヨーカー誌へ報告。

「政治思想における6つ(後に8つ)の試論」をまとめた『過去と未来』出版。ドイツ語版は1994年。

1962年

5月、ニューヨークでタクシーに乗車中に交通事故に遭い入院。この間にアイヒマン裁判の記録文書や覚書を整理する。

1963年

2月、ニューヨーカー誌が「イェルサレムのアイヒマンについての報告」を5部シリーズとして掲載を始める。世論の反発を買う。『イェルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』として出版、ドイツ語版は1964年。

1963-67年

シカゴ大学教授に就任。「政治へのイントロダクション」、「基本的な道徳命題」について講義。ニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチにて「道徳哲学についてのいくつかの諸問題」に取り組む。死後の2003年に出版、ドイツ版は2006年。

1964年

ベトナム戦争勃発。

国際機関「アート・アンド・レター」の会員として表彰される。

1965-75年

コーネル大学で客員教授を務めた後、ニューヨークのニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチの教授に就任。「哲学と政治」、「カントの政治哲学」(1982年、ドイツ語版1985年出版)等の講義が行われる。

1967年

10月、ドイツ・アカデミー「言語と詩」からジークムント・フロイト賞が授与される。

1968年

文学者について描写した『暗い時代の人々』を出版、ドイツ語版は1989年。

1969年

2月、カール・ヤスパース死去。バーゼル大の追悼式でハンス・ザーナーらとともに追悼の辞を述べる。

夏、スイス・ロカルノ近くでブリュッヒャーと数週間過ごす。翌年もここで過ごす。

1970年

10月、ブリュッヒャー死去。ブリュッヒャーはアーレントとの関係にかんし「友情とはエロスを越えたフィリア(愛)のことだ。そこにあるのは、あるがままに認め合う二つの人格の相互洞察だ」と最終講義で述べている。

1971年

「思考と道徳的考察」について考察。『精神の生活』の研究が始まる。

1972年

ウォーターゲート事件発覚。

11月、カナダ・ヨーク大学開催の会議「ハンナ・アーレントの仕事」に参加。

1973年

4月-5月、スコットランド・アバディーン大のギフォード講座にて「精神の生活:第Ⅰ部 思考」についての講義を行う。1978年に出版、ドイツ語版は1979年。

1974年

5月、引き続き「精神の生活:第Ⅱ部 意志」について講義を行うが心臓発作により5月10日にギフォード講座終了。

1975年

4月、ヨーロッパ文化への貢献にたいしデンマーク政府からソニング賞を授与される。

5月、ボストン200年フォーラムにて講演「塒(寝ぐら)への帰宅」。1976年出版、ドイツ語版は1986年。

5月-9月、ドイツ文学アーカイブ訪問のためマールバッハに、『精神の生活:意志』(1978年出版、ドイツ語版は1979年)の研究のためスイスに、ハイデガー訪問のためフライブルクにそれぞれ滞在。

12月4日、心臓発作によりニューヨークの自宅で没す。

*参照資料として、アーレント『私は理解したい』(2005年)の「履歴一覧」(ウルズラ・ルッツ作成のバイオグラフィー付)、エリザベス・ヤング・ブリューエルの『ハンナ・アーレント伝』(1982年)、川崎修『現代思想の冒険者たち17:アレント』(1998年)。

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